『いちょう迷路』

みずの こう

 正門を出て、すでに赤になった信号を走った。おろしたての赤いコート、その裾が、風を抱きしめて揺れること、少し切れた息が、肺に刺さるように冷たいこと。二三軒歩いた先にある、窓際の熊のぬいぐるみが目印の喫茶店、重い扉を開けると、店の内側は水をかけたように暗かった。
 空っぽの席を見渡して、私は、走ってきた甲斐がなかったことを知った。相手が遅れすぎているのか、私が遅れすぎたのか。きっと私のせいだろう。しかし、コートのポケットに、今しがたしてきた拾いもの、それが作る膨らみを撫でていると、どうしても心が躍らずにはいられなかった。私は自分が一人になれたことを、密かに喜んでいるのかもしれない。
 席を取りコートを脱ぐと、いちょうの葉が一枚くっついている。久しぶりの赤いコート、大学に来るまで、就活は十二月がこんなに忙しいものだと知らなかった。そして、紅葉は十二月が一番きれいだということも。構内の広い通りにどっさりと積もったいちょうの雪を、大学が片付けずにいてくれることも。
 そこに私は、どうにも奥手な贈り物を見つけたのだ。落ち葉に埋もれた落とし物。誰に向けられたものでもないということは、まさしく私に向けられているということだと思う。いちょうの落ち葉を肩にかぶって、広すぎる大学に埋もれてしまう私のために。
 コートのポケットから、拾ったそれを取り出す。ラベルを剥かれた透明な瓶。丸めたネクタイを突っ込んで、栓がしてあった。中には、二つ折りの便箋……。狭すぎる瓶の口から注意して取り出すと、細いインクで、しかしごつごつとした筆跡の文字。

  宇宙からきたぼくら 地上の星
  アンタレスより赤い火を ぼくら知りはしなかった
  回る 回る 扇風機が回る
  ついた口紅乾かすように
  胸の風船浮かべるように

 便箋には一滴、透明な染みが落ちている。文字を読みながら、その染みをさすると、どこか懐かしい落ち着きを思い出すようだ。私は、化粧のポーチに隠した煙草を取り出し、火を付ける。まだ二箱目の煙草。祖父の家の、押し入れの臭い、夏休み、よくそこで、集まった親戚達から妹と隠れていた。
 鈴が鳴って店の戸が開く。私はとっさに煙草を机の下に隠す。しかし、知らない学生の三人組だった。静寂を破る凜とした声の響き。若く、正しく、公然としている分、嫌になるほどよそよそしい。
 コートを羽織って店を出る。冬の斜陽は早く、私の体も黄色く染まる。道路の脇に溜ったいちょうの落ち葉が、風に吹かれて配置を変える。しかし、模様は同じモザイクだ。一枚一枚色の違う葉が、重なり合って、位置を変えては同じに見える。
 信号の前、重大なことを見落した気がして、私は店へと駆け戻った。窓際の熊のぬいぐるみ、その腕には、私が貸した小説と、見知らぬ一枚のCDが抱かれている。そのお尻の下に、一枚のノートも添えて。
 ただ、私はそれをそのままにしておいた。誰でもない者でい続けるための資格が、今は尊く思えたから。