『Velocity Time Dilation(速度による時間の膨張)』

梁川 丁香

「ねぇ、あなた彼氏はいるの?」
「え」
「だから、彼氏はって」
「いや、いないけど」
はー、と母のため息が実家のダイニングに響いた。まだ湯気の立つご飯の香りが、急に鬱陶しい。
「私があなたの歳の頃にはお父さんと一緒に暮らし始めてたのに…」
「私まだ学生だし」
なんだそういうことかと少し納得。地元の大学卒で銀行勤務、窓口で父と知り合いすぐに付き合い出した母と、大学で東京に出て院まで進んだ私は似ていない、単にそれだけだと思う。時代も違うし。でも、そう伝えても母が納得しないことを私はよく知っている。
「結婚する気あるの?」
「気が早いって…」
「縁談探してこようか」
「いいって、私こっち戻る気ないし…」
こういう時はこの場を離れるに限る、私は大学で習得した早食いで早急に食事を終えることにした。
「ごちそうさま」
離脱。


食器を持って台所へ。スポンジに洗剤を泡立てながら、これが噂に聞く結婚圧力かと考える。幼い頃、洗い物ができるといいお嫁さんになれると母に言われて、単純な私は皿洗い等の家事をするようになった。生活力がついた点は母に感謝してるけど、幼き日の私には家事ができても結婚できるわけじゃないと言いたい。
別に今までそういうことが全くなかったわけじゃない。高校は共学で、周りに付き合っている子もいた。仲のいい男子もいた。告白もされたけど、友達じゃなくなるのが怖くて断った。彼は今どうしているだろうか。一浪して大学に受かったと聞いたけど、その名前を思い出せない。

皿洗いを終えて自室に上がり、ベッドに潜り込んで頭まで布団を被る。
地方から男子8割の大学に入ったら驚くほどモテて、でも同級生の男子はみんな子供っぽくてピンと来なかった。7月にサークルの先輩に告白されて、同級生よりは格好良く思えたので付き合ったけど、3月くらいに先輩が他大女子と浮気してるという噂を聞き、その後しばらくして先輩から別れを切り出された。それから1人で十分楽しく過ごしていたけど、気づけば23歳で、周りは独り身の方が少数派だし、結婚云々という声も聞こえてくると、自分の人生なんだったんだと思わなくもない。別に結婚が人生の価値とか目的とは思ってないけど。私がピンと来なかった男子の彼女達は、彼らのどこにピンと来たんだろう。母は父のどこにピンと来たんだろう。
息苦しくなったので布団から頭を出す。もう5年近く時間が止まった部屋。本棚には教科書、問題集、小説、少女漫画。最下段に詰め込まれた『君に届け』は18巻で止まっている。十何巻でようやくキスって展開遅すぎでしょ、と昔は思ったけど、23歳修士1年生で彼氏なしの私の方がずっと展開が遅い。大学で色んなことを学んで、当たり前だけど私の周りに風早翔太はいないと知って、でもそこから一歩も前に踏み出せていない。私はこの部屋にいた頃の私のままだ。少しの後ろめたさを除けば。