『後ろにあるもの』

となりのイカ東

「あ、もう帰ってきてるんだ」
玄関に大きめの靴が置いてあるのに気づいた。
私は現在、夫の〇〇と二人暮らし。
子供はまだいないがお互い不自由なく、可もなく不可もなくといった生活を送っている。
「あれ、帰ってきてたの、仕事はどうしたの?」
そう言った矢先に見た夫の顔が少しいつもと違うことに気づいた。
「仕事はあったんだけど、今日は話があって。」
何か違う。そう感じた。

「別れて欲しいんだ。」
夫から切り出された言葉は淡々と、そして少なかった。
「え、待ってなんで。」
「好きな人ができたんだ。もう君のことは好きになれない。別れて欲しい。」
一緒にご飯を食べて、TVをみて、そして同じベッドで寝る。
そんなありふれた生活をしていた。
夫がそんなことを思っていたなんて知らなかった。
私はとりたてて、耳年増というわけではないが、これまで数名の男性と付き合ってきて、男の人がどう考えてるかとか男の人が女性と違ってどのように現実を捉えていくかとかは知っていたつもりだった。
「このままずっと一緒にいることに自信が持てなくなったんだ。浮気したのは謝るけど、もう一緒にいることは無理だ。」
私は無言を貫く。


ふと、一つの言葉を思い出した。
東大女子。
大学に入った、本当にただそれだけなのに私はずっとこのレッテルを貼られ続けてきた。
大学を出たら、ますますこのレッテルは私を縛っていき、東大女子は大学を出たら彼氏ができないと言われたり、東大女子というだけで他大出身の男は恐れおののいたりする。
何が違うんだろう。
人としては他の人と同じじゃないか。
顔が可愛いというだけで好かれる女だっているじゃないか。
私は東大女子というレッテルが本当に嫌だった。
だから、大学を出た後に知り合った他大出身の〇〇と結婚できたことは、私が自分の手で東大女子というレッテルをはがしたことのように思えてとても嬉しかった。
でも、今、〇〇から別れを言われた。
自信が持てなくなったってそれは私が東大女子であるから?
私はふと今までの〇〇との過程を振り返ってみた。
もしかして、東大女子であるということを意識しすぎたのかもしれない。
人は形を持つことによって人を限定していく。私でいうと、それは東大女子ということだろう。
私が東大女子であるということは、他人にとっての私を限定することだと思っていたけど、それは私にとっての私を限定していることでもあったんだ。
〇〇は多分、それに耐えられなくなったんだ。
〇〇は多分、私が東大女子であるということを何も思ってなかったんだ。
私は自分のことを考えるだけで、〇〇のことを考えることをやめて、ただ自分の形に抵抗することだけを考えていたのかもしれない。
自分は形を捨てて変わらなくてはいけない。

「わかった。」
私はもう彼の目ではなくその先にある時計を見ていた。