『午前二時四十五分』

小見門 宏

「東京大学の正門まで。ファミリーマートの前で降ろして下さい。」
 タクシーに乗るやいなやそう告げ、私はドアへ体重を預けた。窓ガラスにつけた頬から感じる外気の冷たさは、ぬくい室内に一日中いて火照った身体には心地が良かった。
 いつもなら帰宅までの少しの時間ですら睡眠に充てようとするのに、疲れきった身体とは対照的に目は冴え、そんな気分には微塵もならなかった。

 昼下がりに裕太から突然送られてきたラインが原因に違いなかった。

「久しぶり。実はこの度、和美と結婚することになりまして。良かったらサークルの皆には披露宴に来て欲しいと思ったんだけど、六月十六日って恭子空いてる?」
 私は咄嗟にホームボタンを押して、携帯を鞄の中に押し込んだ。就職して以来、気づいた連絡にはすぐ返事することを心がけていた私にとっては珍しいことだった。
 その後は必要以上に仕事に打ち込み、気づいたらオフィスに残っている同僚は私と数人だけ。終電もとうの昔に終了している、午前二時三十分のことだった。
 
 鞄の奥底から携帯を取り出し、裕太からのラインを開いた。「結局、和美ちゃんと結婚するんじゃん。」私の口から吐息が洩れた。

 私は一度、裕太と和美ちゃんと三人でご飯を食べたことがある。和美ちゃんの髪は明るい茶色で、大きめの薄ピンク色のニットを着ていた。「初めまして! 和美です。裕太から恭子さんのことはよく聞いていました! お会いできてうれしいです〜。」
文字にすれば感嘆符や長音符が幾度と無く現れるような調子で和美ちゃんは話す。
「和美ちゃんは東大にはあまりいないような子だったよ。」私は後でサークルの同期にそう話した。

 

手のひら大のディスプレイから目を逸らし、私は外を眺めた。

 丸の内のオフィスビル群がみるみるうちに遠ざかって行く。どこのビルも半数程度の部屋ではいまだに電気が点いていた。少し前まで深夜残業は自粛ムードだったのに。いつの間に元に戻ったのだろう。
 白光と漆黒の織りなすモザイクを、私は少し美しいと感じた。

 御茶ノ水駅を横目に少し傾斜のついた道をぐいぐい進むと、見慣れた本郷三丁目交差点が姿を現した。
 これまでは無意識に見逃していた風景が今日は違った様相を呈する。毎日通ったうどん屋、開店前から並んだもつ焼き屋、たまの贅沢で訪れたフレンチ。それらは間違いなく私の大学生活の一部で、あの頃の記憶が鮮やかさを増す気がした。

 もう一度携帯に目を遣る。昼に見たのと少しも変わらない文字列が、そこには表示されていた。

「やっぱり、乗った所まで引き返して下さい。やらないといけない仕事を思い出したんです。」思考に先立って、言葉が口から溢れた。運転手は一瞬の狼狽のあと、もと来た道を逆方向に走り出した。私は反対側の窓の方へ首をひねり、遠景に沈んで行くファミリーマートのネオンをじっと眺めた。

裕太への返事を返すのは、まだまだ先のことになりそうだった。